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小津夜景「いつかたこぶねになる日」を読んで。漢詩が日常にあるということ。

今週のお題「最近読んでるもの」

小津夜景さんの「いつかたこぶねになる日」を読みました。

今までの漢詩との付き合い

 漢詩というものを最後に読んだのは独身の頃、塾講師をしていたときに教材で出会った時だったと思う。高校生の頃も漢文の授業や問題は結構好きだったと思う。漢文はもちろん漢字だけが使われているから、一文字に詰まっている意味やニュアンスが多くそれで構成されている漢文全体に詰まっている情景が濃いのだ。それと同時に無駄がない。著書による文体の癖がないのだ。どこまでどんな情景を想像するかは読者に委ねられている。それでも教材にある漢文は春暁や、教訓めいたものが多かったと思う。

今回、いつかたこぶねになる日には著者の日常や過去に関するエッセイにその時思い起こされた漢詩が添えられている。人間が大なり小なり感じるような機微に何百年も前の漢詩がまさにそこにあるべきにように寄り添っている。今まで私には作品は作品味わうものだと思っていた。この本で詩とは日常の中で思い返し心の横に並べるものだと知ったのだ。

詩歌と引用表現

漢詩は少ない限られた文字数の中で情景を込めるために故事で使われていた表現や単語を使っていたりする。読者がその故事を知っているとさらに解釈や味わいを深めることが出来る。例えば本文に白居易漢詩が載せられている。

漳蒲老身三度病

漳蒲とは漳水のほとり、しかし白居易はここで病の治したわけではない。これは魏の劉禎が患ってそこに身を潜めたという故事をなぞらっている。ここに漢詩を愛する当時の読者への「その故事はもちろん知ってるだろうから、ここに引用すると雰囲気感じるよね?!」という信頼を感じる。知らなくても楽しい、知っていたらもっと美しい。この世界はそういうものなんだと思う。

日常と詩歌の距離感

人は事柄単体では長く覚えていることは難しい。生活の中に詩歌があることで思い出や出来事から何年も遠く離れた時に思い返すことが出来るのだ。若い頃聴いていた曲を久しぶりに聴くとあの頃の空気を思い出すように。先人が詠んだ詩歌を添えることで、あのスープを食べた日の感動を、膝まで埋もれて辛かった雪の日の香りを、夜明け前歩行者も車も通ることのないあの大きな交差点を歩いた日の自由を思い出すのだ。

漢詩を読んで想像する景色はいつもどこか透明で澄んでいる。まどろっこしい(というと言い方が悪いけど)修飾や言い回しが一見表面からは取り除かれているからだと思う。本の中にもこう書かれている。

詩は人の心と共振しつつも日常から超然と隔たった、言語ならではの透明で抽象的な砦をひそかに守っている。

寄り添うとはそういうことだ。押し付けることなく、望まない解決をしようとせず、ただ日常に添うようにすることだ。「いつかたこぶねになる日」は著者と漢詩をはじめとした詩歌との心地よい距離感を感じることが出来る。そして自分の生活に寄り添う詩歌を見つけたくなる素晴らしい本でした。

 


 

前回の読書記事

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