菓子がないなら下僕になったら?

ひたすら食べ物を愛で、考えるブログ

何のために学ぶのかという問いへの私の回答

 日常的に10代の子供たちとよく関わります。時々「どうして学ばなければならないのか」という質問を受ける。この前は「歴史とか大人になってから使います?!」でした。私も学生の頃は学ぶことを必要不必要で捉えていたところがあるから苦笑してしまう。やりたいと思っていないことを強制させられていれば必要最低限で済ませたい気持ちも分かる。ここで半端な答え方をしたくなかったので「大人になってから必要になった時、自分がなりたいものがあってそれへの道の上に試験というものが、歴史というものがあったときそれは当面君に必要なんじゃないの」と答えました。今はわからなくてもいざ自分に向かいたい道が出来た時に勉強がが武器の一つになる可能は重々あるし、それが障壁になったら困るんじゃないの、と。これも人が学ぶ理由の一つではあると思います。

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先日蔦屋書店に行ってきました。

ありとあらゆる専門書があって楽しくて親友と爆笑してました(不審者)何がうれしかったかって何を好きになったとしても何を勉強したくなったとしても同じように学んでいる人はたくさんいて本もたくさんあるということ。遠慮せず好きなものは好きといっていいのだと思ったからです。この年になって学門とは必要不必要を越えてはじめて面白さの本質がわかると思いました。今になって学びたいことは山ほどあります。きっとこれからも増えていくのでしょう。学ぶこと自体が楽しい、学んでいるそれそのものが好き。これも人が学ぶ一つの理由だと思います。 

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日本という国のことを考える。政治的な話を少しする。

自分で暮らしている国がどう動いてどこに向かうのかそれを知り、伝えるということがなぜこんなにもスムーズにいかないのかともどかしい思いがします。感情的な事を少しだけ脇において書いていることを書いている以上に読まない、操作しない、決めつけない。それだけのことがこんなにもできないのです。正直少しかいつまんで調べただけでも実りある方なんて私にとっては火を見るより明らかであるから(え、だって読んだらわかるじゃんレベルで)敢えて見解を示しては来なかったんだけど出来ない相手に、知ろうとしない人に少しでも伝えようと心砕いている、そう思って胸が少し苦しくなりました。AかBかの話をする以前の段階でぶつかり合っている。そのとき、世に流れる膨大な情報を読む力、その中から自分が納得できる真実を選択する力がいると思いました。

例えば政府の出した原文を自分はどれだけ理解しているでしょうか。様々な立場の人が語り意図があふれる中で自分にとって実りのあるモノを選べるでしょうか。私は子供達に私が思うAかBかを伝えるつもりはありません。選ぶのは彼ら自身です。だけど彼らが彼らにとって実りある選択が出来るように、誰かの私利私欲の意図載せられることなく、納得してこの国の行く末を選ぶことが出来る力を育てなければならないと思います。その始まりが国語の「作者の意見で一番相応しいものを次の選択肢から選びなさい」であり論理的に真実を示す「証明」であったり、過去のことを知って今の選択に活かす「歴史」であったりするのではないかと思います(挙げればきりがない)大事な選択をするときに、自分の力でそれを読み、誰かを傷つけることなく伝えられる力をつける、そのために勉強するんだよ。

かのマザーテレサは言いました。

 祈りを唱える人でなく、祈りの人になりなさい

 日本という国に生きている私達はそれぞれにそれぞれの国の愛し方や、国の平和への向かい方があると思います。誰かに直接意見を伝え、話し合う、教えあう、説得する。不安な気持ちを救いあげる。いろんな役目があると思います。私の役目は自分が関わる子供たちが彼らが納得できる実りある選択が出来るように、意見の違う人の話を誤解することなく聞けるように、誰かを傷つけることなく話し合いが出来るように、その根幹の所が育つのを手助けすることだ思います。これが私の平和への向かい方であり、祈りの人である生き方だと思っています。