半径3m以内の世界

ひたすら食べ物を愛で、考えるブログ

「勉強が出来るようになるには」について徒然考えたこと

 たまに勉強についてひどく真剣に考えることがあります。

今回は「勉強が出来るようになるには」ということへの私なりに考えていたことです。引用部分は当時の自分のTwitterから。

これくらいの集中力と精度で勉強してたら人生違ってただろうし、これから変わるんだろうなぁと思う

今の集中力と精度と要領で学生の頃勉強出来てたら人生は大きく違ってたと思うとよく思う。そのあとすぐに思い直す「それならば今まさに人生が変わっているまさにその瞬間ではないか」と。

 これがあの頃出来ていたならば、今も人生が変わっている最中ではなかろうか。

結局勉強が出来るかどうかと大きな差って興味があるとか先生が好きだとかうまい説明を聞くとかよりも「自力で解けるようになるまで練習する」ってことをどこまで自分に厳しく問えるかなんだと思うんだよね

近道も裏技もない。とてもシンプル。

不安になって途中で解答見たり、間違ってても正答を書いて理解した気になったり、合ってるか確信ないままに丸つけして丸だったからここはもう大丈夫って通りすぎたりしないで、本当に自力で何も見ず流れるように解答できるまで練習できるかどうか。

そのプロセスは悲喜こもごもだけれど。

たどり着くまでの途中で何回も×になることを受け止められない子もたくさんいる、気持ちはとてもわかる。×に良いも悪いも本当はないのにね。×がつくと自分が×になった気がしてしまう。ただのプロセスなんだと。ただの事実だと受け止める。総じて勉強が出来る子は丸つけのスピードが早い気がする。○×に特段感情移入しない。テキストに間違った問題に印をつけさせてるんだけどそれも躊躇ない。自信がない子は×にショックを受けたり言い訳したりする。まるで自分ののことを×と言われたような気がしてるんだと思う。

成績がいい(解ける問題が多い)子供ほど授業中は淡々としてる。まるで仕事している大人みたいに

もちろん勉強が出来るかどうかと幸せになるかどうかは違う。勉強ができない劣っているとかそういうことじゃない。ただ、中高生の平日に占める授業の時間ってとても多いと思う。一日7時間の授業なにいってるかわからないでその場にいるのは単純に心地よいものではないと思うんだよね。毎日与えられることが少しでも辛くないように。今中高生の目の前にある勉強というものが少しでも彼らの将来を邪魔しないように、もっといえば彼らの将来を応援するようなものになるように。そのために学校や塾はあると思う

先日とあるアンケートに答えたのですがそこに仕事で遣り甲斐を感じる時はどんな瞬間ですかという質問がありました。「自分の助けがいらなくなったのを見た時」と回答しました。誰かに感謝されることが目的ではない。自分がいらなくなるという事が子供達の自立であり、力が伸びるという事であると心から思います。

 

 

「嫌われる勇気ー自己啓発の源流アドラーの教え」を読んで(読書感想文)

 

何度か書店で手に取って、何度か棚に戻した。

何度かページをめくって、何度か「これは」と思った。

何度かめのある日、私は「勇気」を出した。

 

「嫌われる勇気ー自己啓発の源流アドラーの教え」を読んで

きっと自分にとって躊躇するような内容だったのだ。全部読まなくてもそれはわかっていた。わかっていたから気安く手を出せなかった。元来私は影響を受けやすい。いいと思えば明日にでも人間が変わってしまうような生き物であることは自分でも十分知っていた。外界から学んで「実りの多い方を選ぶ」というのは大学生の頃自分で”決めた”ことであった。ようやく手に取った本は意外と柔らかい素材の表紙で緊張していた私に「ひょっとしたら思っているよりライトな中身かも」と頓珍漢なことを思わせた。

 

結論から書くと私はアルフレッドアドラーのことを「知っていた」

彼のことを知っていたのではない。彼の創設したアドラー心理学は確かにこの胸の中に存在するものだった。膝をついて思えばわかっていたことだった。アドラー心理学は勇気の心理学だという。まさにその存在を認める勇気がなかっただけだった。これからこの本を読む人、もう読んでしまった人、全員がこの本を読んだあと同じ気持ちになった(もしくはなる)のではないだろうか。本当は知っている。自分が勇気がなく「人生の嘘」をついて生きてしまっていることを。アドラー心理学は新しいことを学ぶ学問ではなく、もうすでに知っていてでも気づかないように避けていたことを「気づかせる」心理学なのだと思う。

 作中、哲人の「自分の経験によって決定されるものではなく、経験に与える意味によって自らを決定する」という言葉に青年は大げさなほど過剰に反応し声を荒げます。そんなのペテンだ!いまの自分の不幸や不満は過去にあったことが原因で、そのせいで自分は自信を失い、成功せず、こうして意味のない日々を送っているのだ。それは「自分のせいではない」のだと。哲人は続けます。

ライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであるなら、再び自分で選びなおすことも可能なはずです(中略)あなたが変われないでいるのは自らに対して「変わらない」という決心を下しているのです。

変わりたいよりよくなりたいという一歩を踏み出さないのは、変わらないことで自分が「やればできる」という可能性を残しておきたいからだ、というのです。私のなかにも青年はいて、きっとあなたの心にも青年はいます。アドラーの教えは自分の現在を過去や誰かのせいにしない厳しい考えですが、それは誰の影響も受けず自分で自分のライフスタイル(人生の在り方)を選べるのだという、とても凛とした圧倒的な力がある自分を思い出させてくれるのです。

ライフスタイルを変えようとするときわれわれは大きな勇気を試されます。変わることで生まれる「不安」と変わらないことでつきまとう「不満」あなたはきっと後者を選ばれたのでしょう。(中略)あなたが不幸なのは過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたにはただ”勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

 幸せになる勇気は、幸せになるという覚悟だと私は感じました。決めるという事だけが私達を前に進ませてくれるとも。読み進めるたびに本書の中の青年と自分の心と同じ部分が痛み、本当はどうしたらいいのか知っている知っているのにやっていない自分を晒され膝を折って震えるのでした。そして気が付くのです。「そんな自分でも、いまここは選べるのだ」ということを。

 本書の中では「では何が幸福なのか」「本当の自由とはどういうことか」「他者と自分との課題の分離」について青年と哲人の対話形式で書かれています。表題である「嫌われる勇気」とは。

人生は連続する点であり、連続する刹那である。

ぜひまだ本書を手に取ってない皆様に読んでほしい。

お銀の今年のベストオブブックになりました。

 

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